夜明け前に山月記を読み返す🌕🏔🐅

1 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:13:41 ID:ctKjuMqbd.net
🐯・・・

56 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:39:48.23 ID:ctKjuMqbd.net

 その頃パラオの島々にはモゴルと呼ばれる制度があった。

男子組合[ヘルデベヘル]の共同家屋[ア・バイ]に未婚の女が泊り込んで、炊事をする傍ら娼婦の様な仕事をするのである。

其の女は必ず他部落から来る。自発的に来る場合もあり、敗戦の結果強制的に出させられることもある。

50 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:35:53 ID:ctKjuMqbd.net

 今でもパラオ本島、殊にオギワルからガラルドへ掛けての島民で、ギラ・コシサンと其の妻エビルの話を知らない者は無い。

 ガクラオ部落のギラ・コシサンは大変に大人しい男だった。其の妻のエビルは頗[すこぶ]る多情で、部落の誰彼と何時いつも浮名を流しては夫を悲しませていた。

エビルは浮気者だったので、(斯こういう時に「けれども」という接続詞を使いたがるのは温帯人の論理に過ぎない)又、大の嫉妬家[やきもちや]でもあった。己の浮気に夫が当然浮気を以て酬いるであろうことを極度に恐れたのである。

8 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:17:04 ID:JEY2j5kY0.net

謎定期

27 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:24:42 ID:ctKjuMqbd.net

>>20
南島譚 夫婦

68 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:51:00 ID:ctKjuMqbd.net

 恰好なタマナ材は直ぐに切出されたが、舞踊台の製作には大変暇がかかった。何しろ脚が一つ出来たといっては皆を集めて一踊り祝の踊をし、表面が巧く削れたといっては又一踊りするので、仲々はかが行かない。

初め細かった月が一旦円くなり、それが又細くなる迄かかって了った。

其の間カヤンガルの浜辺の小舎に起臥[おきふし]しながら、ギラ・コシサンは時々懐かしいリメイのことを心細く思い浮べた。
あの恋喧嘩[ヘルリス]以来自分があの女に会いに行けない苦しさを、果してリメイは解って呉れているだろうかと。

 一月の後、ギラ・コシサンは莫大な珠貨[ウドウド]を職人達に支払い、新しい見事な舞踊台を小舟に積んでガクラオに帰った。

20 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:21:15 ID:WVHJEvRy0.net

南太平洋の島で女が喧嘩する話なんていうんだっけ?

60 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:42:01 ID:WVHJEvRy0.net

>>52
人生賭けたは言い過ぎやけど人生最後の詩ではあるよね
これからは虎生が始まるんやし
それと批判じゃなくて批評やから、褒めるべきところを褒めるのは間違ってないやろ
それが冷静過ぎるように見えるだけや

49 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:35:13 ID:ctKjuMqbd.net

夫婦 中島敦

3 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:14:48 ID:ctKjuMqbd.net

 隴西の李徴は博學才穎、天寶の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃む所頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかつた。

いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に歸臥し、人と交を絶つて、ひたすら詩作に耽つた。下吏となつて長く膝を俗惡な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺さうとしたのである。

しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。李徴は漸く焦躁に驅られて來た。この頃から其の容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに烱々として、曾て進士に登第した頃の豐頬の美少年の俤は、何處に求めやうもない。

82 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 06:03:42 ID:ctKjuMqbd.net

ただ違うのは、之を取巻いて囃し応援し批評する観衆の中に、ハモニカを持った二人の現代風な青年の交っていたことである。

二人とも、最近コロールの町に出て購めたに違いない・揃いの・真青な新しいワイシャツを着込み、縮れた髪に香油[ポマード]をべっとりと塗り付けて、足こそ跣足[はだし]ながら、仲々ハイカラないでたちである。

彼等は、活劇の伴奏のつもりなのであろうか、如何にも気取ったポーズで首を振り足踏をしながら、此の烈しい執拗な闘争の間じゅう、ずっと軽快なマーチを吹き続けていた。

73 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:56:29 ID:ctKjuMqbd.net

 丁度、モゴルの契約期間も満期になる頃だったので、リメイも彼を伴っての帰村を承知した。二人は篝火のまわりに踊り狂う村人達の目を避け手を携えて間道から浜に出ると、先程繋いでおいた独木舟に乗り、夜の海に浮かび出た。

 翌朝白々明けに舟はリメイの故郷アルモノグイに着いた。二人はリメイの親の家に行き、其処で結婚した。程経て、例のカヤンガル出来の舞踊台を村の衆に披露し、旁々盛大な夫婦固めの式[ムル]を挙げたことは言う迄もない。

63 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:46:39 ID:ctKjuMqbd.net

>>60
>>26の詩が発表した人生最後の詩やないんか作ったの虎になってからやけど

それはともかく袁傪がホンマに冷静に批評してたのかは考える余地があると思うで
単純な感性かも知れんやん

71 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:54:07 ID:ctKjuMqbd.net

 何時かギラ・コシサンは男子組合[ヘルデベヘル]のア・バイの前に来ていた。

中から微かに明りの洩れるのを見れば、誰かがいるに違いない。

はいって見ると、ガランとした内に椰子殻の灯が一つともり、其の灯に背を向けて一人の女が寝ている。紛う方なきリメイだ。

ギラ・コシサンは胸を躍らせて近寄った。向うむきに寝ている女の肩に手を掛けて揺すぶったが、女は此方を向かない。眠っているのではない様子である。

もう一度揺すると、女が向うをむいた儘言った。「私はギラ・コシサンの思い者メゲレゲルだから、誰も触ってはいけない!」

ギラ・コシサンはとび上った。欣びに顫える声で叫んだ。「俺だ。俺だ。ギラ・コシサンだ。」驚いて振向いたリメイの目に大粒の涙が見る見る湧いた。

33 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:26:35 ID:ctKjuMqbd.net

人間は誰でも猛獸使であり、その猛獸に當るのが、各人の性情だといふ。
己れの場合、この尊大な羞恥心が猛獸だつた。虎だつたのだ。之が己を損ひ、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形を斯くの如く、内心にふさはしいものに變へて了つたのだ。

今思へば、全く、己れは、己れの有つてゐた僅かばかりの才能を空費して了つた譯だ。
人生は何事をも爲さぬには餘りに長いが、何事かを爲すには餘りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事實は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭ふ怠惰とが己れの凡てだつたのだ。

己れよりも遙かに乏しい才能でありながら、それを專一に磨いたがために、堂々たる詩家となつた者が幾らでもゐるのだ。虎と成り果てた今、己れは漸くそれに氣が付いた。それを思ふと、己れは今も胸を灼かれるやうな悔を感じる。

55 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:38:59.28 ID:ctKjuMqbd.net

 さて、ギラ・コシサンの妻エビルは、此の恋喧嘩[ヘルリス]を、人妻といわず、娘といわず、女でない女を除いたあらゆる村の女に向って仕掛けた。

そうして殆ど凡ての場合、相手の女を抓り引掻き突飛ばした揚句、丸裸に引剥いて了しまった。 エビルは腕も脚も飽く迄太く、膂力[りょりょく]に秀でた女だったのである。

エビルの多情は衆人周知の事実だったにも拘わらず、彼女の数々の情事は、結果から見て、正しいと言われなければならない。ヘルリスに於ける勝利という動かし難い輝かしい証拠があるのだから。斯うした実証を伴う偏見ほど牢乎たるものはない。

実際エビルは、彼女の現実の情事は常に正義であり、夫の想像された情事は常に不正であると固く信じていた。

哀れなのはギラ・コシサンである。
妻の口舌と腕力とによる日毎の責苦の外に、斯かる動かし難い証拠を前にして、彼は、本当に妻が正しく己が不正なのかも知れぬという良心的な懐疑に迄苦しまねばならなかった。偶然が彼に恵まなかったなら、彼は日々の重みのために押潰されて了ったかも知れぬ。

2 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:13:49 ID:ctKjuMqbd.net

山月記 中島敦

40 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:30:15 ID:ctKjuMqbd.net

 言終つて、叢中から慟哭の聲が聞えた。袁傪も亦涙を泛べ、欣んで李徴の意に副ひ度い旨を答へた。李徴の聲は併し忽ち又先刻の自嘲的な調子に戻つて、言つた。

 本當は、先づ、この事の方を先にお願ひすべきだつたのだ、己れが人間だつたなら。飢ゑ凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を氣にかけてゐる樣な男だから、こんな獸に身を墮すのだ。

 さうして、附加へて言ふことに、袁傪が嶺南からの歸途には決して此の途を通らないで欲しい、其の時には自分が醉つてゐて故人を認めずに襲ひかかるかも知れないから。

又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上つたら、此方を振りかへつて見て貰ひ度い。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇らうとしてではない。我が醜惡な姿を示して、以て、再び此處を過ぎて自分に會はうとの氣持を君に起させない爲であると。

44 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:31:47 ID:P2F4tNkn0.net

>>40
 本當は、先づ、この事の方を先にお願ひすべきだつたのだ、己れが人間だつたなら。飢ゑ凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を氣にかけてゐる樣な男だから、こんな獸に身を墮すのだ。

ここめっちゃ好き

58 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:41:18 ID:ctKjuMqbd.net

 モゴルの女は一人で男子組合の会員の凡てに接する場合もあれば、或る特別の少数、或いは一人だけに限る場合もある。それは女の自由に任せられるのであって、組合の方で強制する訳には行かない。

リメイは既婚者ギラ・コシサン一人だけを選んだ。男自慢の青年共の流眄[ながしめ]も口説も、その他の微妙な挑発的手段も、彼女の心を惹くことが出来ない。

 ギラ・コシサンにとって、今や世界は一変した。女房の暗雲のような重圧にも拘わらず、外には依然陽が輝き青空には白雲が美しく流れ樹々には小鳥が囀っていることを、彼は十年この方始めて発見したように思った。

47 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:33:37 ID:WVHJEvRy0.net

>>23
ここの本音すき
親友の、人生を賭けた詩を冷静過ぎるくらいに批評してるところほんとすこ

42 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:30:55 ID:ctKjuMqbd.net

(昭和17年2月發表)

70 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:52:55 ID:ctKjuMqbd.net

 猫のように闇中を見通す未開人の眼で彼がそうっと家の中を窺った時、彼は其処に一組の男女の姿を見付けた。

男は誰か判らないが、女がエビルであることだけは間違いない。

瞬間、ギラ・コシサンは、ほっと、助かった! という気がした。目前に見た事の意味よりも、いきなり妻に怒鳴りつけられる事から免れたことの方が彼にとって重大だったのである。

次に彼は何か少し悲しい気がした。嫉妬でも憤怒でもない。

大嫉妬家のエビルに向って嫉妬するなどとは到底考えられぬことだし、怒りなどという感情はいじけた此の男の中から疾うに磨滅し去っていて今は少しの痕跡さえ見られない。

彼は唯何かほんの少し寂しい気がしただけである。彼は又そっと足音を忍ばせて家から遠ざかった。

69 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:51:44 ID:ctKjuMqbd.net

 彼がガクラオの浜に着いた時は夜であった。浜辺にあかあかと篝火が燃え、人々の手を拍ち唱いはしゃぐ声が聞える。村人が集まって豊年祈りの踊をしているのであろう。

 ギラ・コシサンは踊の場所から大分離れた所に舟を繋ぎ、舞踊台は舟に残したまま、そっと上陸した。静かに踊の群に近付き椰子樹の陰から覗いて見たが、踊る人々の中にも見物の中にも妻のエビルの姿は見えない。彼は心重く己が家へと歩を運んだ。

 ひょろ高い檳榔樹[びんろうじゅ]木立の下の敷石路をギラ・コシサンは、忍び足で灯の無い家に近附いた。妻に近附くのが、唯何となく怖かったのである。

18 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:20:37 ID:ctKjuMqbd.net

 それ以來今迄にどんな所行をし續けて來たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず數時間は、人間の心が還つて來る。

さういふ時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雜な思考にも堪へ得るし、經書の章句をも誦ずることも出來る。

その人間の心で、虎としての己の殘虐な行のあとを見、己の運命をふりかへる時が、最も情なく、恐しく、憤ろしい。

しかし、その、人間にかへる數時間も、日を經るに從つて次第に短くなつて行く。今迄は、どうして虎などになつたかと怪しんでゐたのに、此の間ひよいと氣が付いて見たら、己れはどうして以前、人間だつたのかと考へてゐた。之は恐しいことだ。

48 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:34:04 ID:JEY2j5kY0.net

名人伝は?

72 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:55:44 ID:ctKjuMqbd.net

 大分長い間経って二人が我に返った時、リメイは(エビルを負かす程の強い女だったにも拘わらず)さめざめと泣きながら、彼が来なくなってからの久しい間に、如何に操を立てるのが苦しかったかを、かき口説いた。
もう二三日も立てば或いは操を立て通し切れなかったかも知れないとも言った。

 妻があれ程淫奔で、娼婦が斯くも貞淑だという事実は、卑屈なギラ・コシサンにも竟に妻の暴虐に対する叛逆を思い立たせた。

以前の壮烈な恋喧嘩[ヘルリス]の結果を見れば、優しく強いリメイがついている限り、幾らエビルが攻寄せて来ても恐れることはない。

今迄之に思い到らず、愚図愚図とあの猛獣の窟から逃出さなかったとは、何という愚かなことだったか!

「逃げよう。」と彼は言った。此の際にもまだ逃げるなどという臆病な言い方を彼は用いた。「逃げよう。お前の村へ。」

28 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:24:44 ID:DJFFtgRSp.net

>>26
ここすきここすきここすき

37 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:27:57 ID:ctKjuMqbd.net

>>24
ワイも思春期には感銘を受けたわ

76 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:58:42 ID:ctKjuMqbd.net

 エビルは忽ちカアーッと逆上した。

世の中に自分程可哀そうな者は無い、オボカズ女神の身体がパラオの島々と化して以来、リメイ程性の悪い女は無い、と喚き、ワアワア泣きながら家を飛び出した。

海岸のア・バイの所迄来ると、その前の大椰子樹に手を掛けて上ろうとした。

昔、大変古い昔、此の村の或る男が財宝[ウドウド]と芋田と女とを友人に欺きとられた時、
その男は此の椰子の親木(今からずっと前に枯れて了しまったが、其の頃はまだ椰子としての男盛りで村一番の丈高い樹であった)に駈け上り、
其の天辺から村中の人々に呼び掛けて、己の欺かれた次第を告げ、欺瞞者を呪い世を怨み神を怨み己を生んだ母親をも怨んで、それから、地上へ飛び下りた。

之が言伝えに残る・前にも後にも此の島唯一人の自殺者だが、今エビルは此の男に倣おうとした。

34 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:26:40 ID:WVHJEvRy0.net

>>27
君のスレ見るたびに質問してるわ
一生覚える気ないけどサンガツ記

39 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:29:43 ID:ctKjuMqbd.net

>>34
ええんやで何回でも聞いてくれそれで読んでくれ

16 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:19:00 ID:ctKjuMqbd.net

少し明るくなつてから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となつてゐた。

自分は初め眼を信じなかつた。次に、之は夢に違ひないと考へた。夢の中で、之は夢だぞと知つてゐるやうな夢を、自分はそれ迄に見たことがあつたから。

どうしても夢でないと悟らねばならなかつた時、自分は茫然とした。さうして、懼れた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。

7 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:16:58 ID:ctKjuMqbd.net

其の聲に袁傪は聞き憶えがあつた。驚懼の中にも、彼は咄嗟に思ひあたつて、叫んだ。「其の聲は、我が友、李徴子ではないか?」

袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かつた李徴にとつては、最も親しい友であつた。温和な袁傪の性格が、峻峭な李徴の性情と衝突しなかつたためであらう。

 叢の中からは、暫く返辭が無かつた。しのび泣きかと思はれる微かな聲が時々洩れるばかりである。ややあつて、低い聲が答へた。「如何にも自分は隴西の李徴である」と。

59 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:41:32 ID:ctKjuMqbd.net

 エビルの慧眼が夫の顔色の変化を認めない訳がない。

彼女は直ちに其の原因を突きとめた。一夜、徹底的に夫を糺弾した後、翌朝、男子組合のア・バイに向って出掛けた。

夫を奪おうとした憎むべきリメイに断乎としてヘルリスを挑むべく、海盤車ひとでに襲いかかる大蛸の様な猛烈さで、彼女はア・バイの中に闖入[ちんにゅう]した。

6 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:16:12 ID:ctKjuMqbd.net

 翌年、監察御史、陳郡の袁傪といふ者、勅命を奉じて嶺南に使し、途に商於の地に宿つた。
次の朝未だ暗い中に出發しようとした所、驛吏が言ふことに、これから先の道に人喰虎が出る故、旅人は白晝でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでせうと。袁傪は、しかし、供廻りの多勢なのを恃み、驛吏の言葉を斥けて、出發した。

殘月の光をたよりに林中の草地を通つて行つた時、果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。

虎は、あはや袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隱れた。叢の中から人間の聲で「あぶない所だつた」と繰返し呟くのが聞えた。

57 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:40:52 ID:ctKjuMqbd.net

 ギラ・コシサンの住んでいるガクラオの共同家屋[ア・バイ]に偶々グレパン部落の女がモゴルに来た。名をリメイといって非常な美人である。

 ギラ・コシサンが初めて此の女をア・バイの裏の炊事場で見た時、彼は茫然として暫く佇立[ちょりつ]した。
その女の黒檀彫の古い神像のような美に打たれたばかりではない。何か運命的な予感が――此の女によってのみ自分は現在の女房の圧制から免れられるかも知れぬという・哀れにも甚だ打算的な予感がしたのである。

彼の此の予感は、彼を見返した女の熱情的な凝視(リメイは大変長い睫[まつげ]と大きな黒い目とをもっていた)によって更に裏付けられた。

其の日以来、ギラ・コシサンとリメイとは恋仲になったのである。

24 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:23:15 ID:IPi/zq97K.net

こんなんに感銘受けるんは思春期やで

25 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:23:43 ID:ctKjuMqbd.net

 舊詩を吐き終つた李徴の聲は、突然調子を變へ、自らを嘲るが如くに言つた。

 羞しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己れは、己れの詩集が長安風流人士の机の上に置かれてゐる樣を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たはつて見る夢にだよ。嗤つて呉れ。詩人に成りそこなつて虎になつた哀れな男を。

(袁傪は昔の青年李徴の自嘲癖を思出しながら、哀しく聞いてゐた。)

さうだ。お笑ひ草ついでに、今の懷を即席の詩に述べて見ようか。この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きてゐるしるしに。

62 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:43:09 ID:ctKjuMqbd.net

 エビルが負けた。

 過去十年間無敵を誇った女丈夫エビルが最も大事な恋喧嘩[ヘルリス]に惨敗を喫したのである。

ア・バイの柱々に彫られた奇怪な神像の顔も事の意外に目を瞠り、天井の闇にぶら下って惰眠を貪っていた蝙蝠共も此の椿事[ちんじ]に仰天して表へ飛び出した。

ア・バイの壁の隙間から一部始終を覗いていた夫のギラ・コシサンは、半ば驚き半ば欣び、大体に於て惶れ惑うた。

リメイによって救われるかも知れぬとの予感が実現しようとしているのは有難かったが、何しろ無敵のエビルが敗れるなどという大変事を前にして、一体この事柄をどう考えていいのか、又、此の事件が己が身にどう影響して来るのか、大いに惶れ惑わざるを得なかったのである。

62 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:43:09 ID:ctKjuMqbd.net

 エビルが負けた。

 過去十年間無敵を誇った女丈夫エビルが最も大事な恋喧嘩[ヘルリス]に惨敗を喫したのである。

ア・バイの柱々に彫られた奇怪な神像の顔も事の意外に目を瞠り、天井の闇にぶら下って惰眠を貪っていた蝙蝠共も此の椿事[ちんじ]に仰天して表へ飛び出した。

ア・バイの壁の隙間から一部始終を覗いていた夫のギラ・コシサンは、半ば驚き半ば欣び、大体に於て惶れ惑うた。

リメイによって救われるかも知れぬとの予感が実現しようとしているのは有難かったが、何しろ無敵のエビルが敗れるなどという大変事を前にして、一体この事柄をどう考えていいのか、又、此の事件が己が身にどう影響して来るのか、大いに惶れ惑わざるを得なかったのである。

79 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 06:01:17 ID:ctKjuMqbd.net

 残された少数の見物人も別に驚きはせぬ。二人の後姿を見送ってニヤリと笑ったばかりである。

 四五日すると、エビルと共に白昼タマナの茂みに姿を消した中年男の家に、エビルが公然と入り込んだことを村人は知った。鼻の半分落ちかかった・村で二番目の物持は、丁度、最近妻に死なれたばかりだったということである。

 斯くてギラ・コシサンと其の妻のエビルとは二人とも、但しめいめい別々にではあるが、幸福な後半生を送ったと、今に至る迄村人達は語り伝えている。

23 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:23:01 ID:ctKjuMqbd.net

 袁傪は部下に命じ、筆を執つて叢中の聲に隨つて書きとらせた。李徴の聲は叢の中から朗々と響いた。長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一讀して作者の才の非凡を思はせるものばかりである。

しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次の樣に感じてゐた。成程、作者の素質が第一流に屬するものであることは疑ひない。しかし、この儘では、第一流の作品となるのには、何處か(非常に微妙な點に於て)缺ける所があるのではないか、と。

41 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:30:36 ID:ctKjuMqbd.net

 袁傪は叢に向つて、懇ろに別れの言葉を述べ、馬に上つた。叢の中からは、又、堪へ得ざるが如き悲泣の聲が洩れた。袁傪も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出發した。

 一行が丘の上についた時、彼等は、言はれた通りに振返つて、先程の林間の草地を眺めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。

虎は、既に白く光を失つた月を仰いで、二聲三聲咆哮したかと思ふと、又、元の叢に躍り入つて、再び其の姿を見なかつた。

43 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:31:38 ID:a1gvnCYC0.net

30 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:24:52 ID:NvTa2A7Q0.net

猛虎魂を感じる

31 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:25:25 ID:ctKjuMqbd.net

 時に、殘月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に曉の近きを告げてゐた。人々は最早、事の奇異を忘れ、肅然として、この詩人の薄倖を嘆じた。李徴の聲は再び續ける。

 何故こんな運命になつたか判らぬと、先刻は言つたが、しかし、考へやうに依れば、思ひ當ることが全然ないでもない。

人間であつた時、己れは努めて人との交を避けた。人々は己れを倨傲だ、尊大だといつた。

實は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかつた。勿論、曾ての郷黨の秀才だつた自分に、自尊心が無かつたとは云はない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいふべきものであつた。

22 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:22:47 ID:ctKjuMqbd.net

>>10
虎に成り果ててずっと一人でいたのに李徴だって声だけで分かってもらえたら泣きもするよ

13 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:17:47 ID:Nc0wizV5a.net

完結したら教えて

83 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 06:04:11 ID:ctKjuMqbd.net

(昭和17年11月発表)

4 :風吹けば名無し:2020/02/08(土) 05:15:15 ID:ctKjuMqbd.net

數年の後、貧窮に堪へず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになつた。

一方、之は、己の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遙か高位に進み、彼が昔、鈍物として齒牙にもかけなかつた其の連中の下命を拜さねばならぬことが、往年の儁才李徴の自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。

彼は怏々として樂しまず、狂悖の性は愈々抑へ難くなつた。