明け方に山月記を読み返す🌖🏔🐅

1 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:09:47 ID:HpyHOxvI0.net
🐯・・・

24 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:20:47 ID:HpyHOxvI0.net

己れは詩によつて名を成さうと思ひながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交つて切磋琢磨に努めたりすることをしなかつた。

かといつて、又、己れは俗物の間に伍することも潔しとしなかつた。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所爲である。

己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨かうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出來なかつた。

己れは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによつて益々己の内なる臆病な自尊心を飼ひふとらせる結果になつた。

人間は誰でも猛獸使であり、その猛獸に當るのが、各人の性情だといふ。己れの場合、この尊大な羞恥心が猛獸だつた。虎だつたのだ。之が己を損ひ、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形を斯くの如く、内心にふさはしいものに變へて了つたのだ。

26 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:22:01 ID:rRAudg620.net

しゃんしゅき〜

35 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:26:25 ID:rhzYwEjv0.net

流石にスレタイNGにするわ

28 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:23:18 ID:HpyHOxvI0.net

>>23
一つの言葉で括らなくなったならより正確で自由に山月記を読むことに近づいとると思うよ

38 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:27:42 ID:HpyHOxvI0.net

>>35
山月記を読み返そうと思わなくなったならそれがええと思うよ
思わないなら開かなけりゃいいだけの話やろけど

23 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:20:16 ID:5wJt+dnA0.net

尊大な羞恥心と臆病な自尊心って言葉で括らんから
もう頑張らんでええで

50 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:39:32 ID:HpyHOxvI0.net

 紀昌は早速師の許に赴いてこれを報ずる。飛衛は高蹈[こうとう]して胸を打ち、初めて「出かしたぞ」と褒めた。そうして、直ちに射術の奥儀秘伝を剰すところなく紀昌に授け始めた。

 目の基礎訓練に五年もかけた甲斐があって紀昌の腕前の上達は、驚くほど速い。

 奥儀伝授が始まってから十日の後、試みに紀昌が百歩を隔てて柳葉を射るに、既に百発百中である。二十日の後、いっぱいに水を湛えた盃を右肱[ひじ]の上に載せて剛弓を引くに、狙いに狂いの無いのはもとより、杯中の水も微動だにしない。

2 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:09:56 ID:HpyHOxvI0.net

山月記 中島敦

37 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:26:43 ID:HpyHOxvI0.net

(昭和17年2月發表)

44 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:33:23 ID:jhh6ZunS0.net

ええな
パラオの話も好き

33 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:25:36 ID:HpyHOxvI0.net

 袁傪は叢に向つて、懇ろに別れの言葉を述べ、馬に上つた。叢の中からは、又、堪へ得ざるが如き悲泣の聲が洩れた。袁傪も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出發した。

53 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:41:28 ID:HpyHOxvI0.net

 二月の後、たまたま家に帰って妻といさかいをした紀昌がこれを威そうとて烏号[うごう]の弓に綦衛[きえい]の矢をつがえきりりと引絞って妻の目を射た。

矢は妻の睫毛三本を射切ってかなたへ飛び去ったが、射られた本人は一向に気づかず、まばたきもしないで亭主を罵り続けた。けだし、彼の至芸による矢の速度と狙いの精妙さとは、実にこの域にまで達していたのである。

27 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:22:49 ID:ivSu8dgL0.net

名人伝にしろ

51 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:40:02 ID:HpyHOxvI0.net

一月の後、百本の矢をもって速射を試みたところ、第一矢が的に中れば、続いて飛来った第二矢は誤たず第一矢の括[やはず]に中って突き刺さり、更に間髪を入れず第三矢の鏃[やじり]が第二矢の括にガッシと喰い込む。

矢矢[しし]相属し、発発相及んで、後矢の鏃は必ず前矢の括に喰入るが故に、絶えて地に墜ちることがない。

瞬く中に、百本の矢は一本のごとくに相連なり、的から一直線に続いたその最後の括はなお弦を銜[ふく]むがごとくに見える。傍で見ていた師の飛衛も思わず「善し!」と言った。

5 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:11:54 ID:HpyHOxvI0.net

數年の後、貧窮に堪へず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになつた。

一方、之は、己の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遙か高位に進み、彼が昔、鈍物として齒牙にもかけなかつた其の連中の下命を拜さねばならぬことが、往年の儁[しゆん]才李徴の自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。

彼は怏々として樂しまず、狂悖[はい]の性は愈々抑へ難くなつた。

8 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:13:23 ID:HpyHOxvI0.net

叢の中から人間の聲で「あぶない所だつた」と繰返し呟くのが聞えた。其の聲に袁傪は聞き憶えがあつた。驚懼の中にも、彼は咄嗟に思ひあたつて、叫んだ。「其の聲は、我が友、李徴子ではないか?」

袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かつた李徴にとつては、最も親しい友であつた。温和な袁傪の性格が、峻峭な李徴の性情と衝突しなかつたためであらう。

 叢の中からは、暫く返辭が無かつた。しのび泣きかと思はれる微かな聲が時々洩れるばかりである。ややあつて、低い聲が答へた。「如何にも自分は隴西の李徴である」と。

60 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:49:00 ID:HpyHOxvI0.net

>>55
端正な文章で美しい風景を描く小説なんてもう流行らんのやろな誰も描いとらんやろ
純文学も進化しとるんやなって

42 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:32:38 ID:HpyHOxvI0.net

 飛衛は新入の門人に、まず瞬きせざることを学べと命じた。紀昌は家に帰り、妻の機織台の下に潜り込んで、そこに仰向けにひっくり返った。眼とすれすれに機躡[まねき]が忙しく上下往来するのをじっと瞬かずに見詰めていようという工夫である。

理由を知らない妻は大いに驚いた。第一、妙な姿勢を妙な角度から良人[おっと]に覗かれては困るという。厭がる妻を紀昌は叱りつけて、無理に機を織り続けさせた。

来る日も来る日も彼はこの可笑しな恰好で、瞬きせざる修練を重ねる。

二年の後には、遽だしく往返する牽挺[まねき]が睫毛[まつげ]を掠めても、絶えて瞬くことがなくなった。

30 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:24:30 ID:HpyHOxvI0.net

己れは昨夕も、彼處で月に向つて咆えた。誰かに此の苦しみが分つて貰へないかと。

しかし、獸どもは己れの聲を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。

山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂つて、哮つてゐるとしか考へない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己れの氣持を分つて呉れる者はない。

恰度、人間だつた頃、己れの傷つき易い内心を誰も理解して呉れなかつたやうに。己れの毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。

19 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:18:38 ID:HpyHOxvI0.net

 袁傪は部下に命じ、筆を執つて叢中の聲に隨つて書きとらせた。李徴の聲は叢の中から朗々と響いた。長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一讀して作者の才の非凡を思はせるものばかりである。

しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次の樣に感じてゐた。成程、作者の素質が第一流に屬するものであることは疑ひない。しかし、この儘では、第一流の作品となるのには、何處か(非常に微妙な點に於て)缺ける所があるのではないか、と。

29 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:23:50 ID:HpyHOxvI0.net

己れには最早人間としての生活は出來ない。たとへ、今、己れが頭の中で、どんな優れた詩を作つたにした所で、どういふ手段で發表できよう。

まして、己れの頭は日毎に虎に近づいて行く。
どうすればいいのだ。己れの空費された過去は? 己れは堪らなくなる。

さういふ時、己れは、向うの山の頂の巖に上り、空谷に向つて吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴へたいのだ。

9 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:13:55 ID:HpyHOxvI0.net

 袁傪は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懷かしげに久濶を叙した。そして、何故叢から出て來ないのかと問うた。

李徴の聲が答へて言ふ。
自分は今や異類の身となつてゐる。どうして、おめゝゝと故人の前にあさましい姿をさらせようか。且つ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭の情を起させるに決つてゐるからだ。

しかし、今、圖らずも故人に遇ふことを得て、愧赧[きたん]の念をも忘れる程に懷かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜惡な今の外形を厭はず、曾て君の友李徴であつた此の自分と話を交して呉れないだらうか。

57 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:44:57 ID:HpyHOxvI0.net

(こうした事を今日の道義観をもって見るのは当らない。
美食家の斉の桓公が己のいまだ味わったことのない珍味を求めた時、厨宰の易牙[えきが]は己が息子を蒸焼にしてこれをすすめた。
十六歳の少年、秦の始皇帝は父が死んだその晩に、父の愛妾を三度襲うた。すべてそのような時代の話である。)

31 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:24:52 ID:HpyHOxvI0.net

 漸く四邊[あたり]の暗さが薄らいで來た。木の間を傳つて、何處からか、曉角が哀しげに響き始めた。

 最早、別れを告げねばならぬ。醉はねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の聲が言つた。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。

彼等は未だ虢略にゐる。固より、己れの運命に就いては知る筈がない。君が南から歸つたら、己れは既に死んだと彼等に告げて貰へないだらうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。

厚かましいお願だが、彼等の孤弱を憐れんで、今後とも道塗に飢凍することのないやうにはからつて戴けるならば、自分にとつて、恩倖、之に過ぎたるは莫い。

52 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:40:40 ID:HpyHOxvI0.net

>>44
パラオの話は全部風景が美しいわ

47 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:34:58 ID:HpyHOxvI0.net

 紀昌は再び家に戻り、肌着の縫目から虱[しらみ]を一匹探し出して、これを己が髪の毛をもって繋いだ。そうして、それを南向きの窓に懸け、終日睨み暮らすことにした。

毎日毎日彼は窓にぶら下った虱を見詰める。初め、もちろんそれは一匹の虱に過ぎない。二三日たっても、依然として虱である。

ところが、十日余り過ぎると、気のせいか、どうやらそれがほんの少しながら大きく見えて来たように思われる。三月目の終りには、明らかに蚕[かいこ]ほどの大きさに見えて来た。

36 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:26:31 ID:HpyHOxvI0.net

 一行が丘の上についた時、彼等は、言はれた通りに振返つて、先程の林間の草地を眺めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。

虎は、既に白く光を失つた月を仰いで、二聲三聲咆哮したかと思ふと、又、元の叢に躍り入つて、再び其の姿を見なかつた。

45 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:33:23 ID:HpyHOxvI0.net

 それを聞いて飛衛がいう。瞬かざるのみではまだ射を授けるに足りぬ。次には、視ることを学べ。視ることに熟して、さて、小を視ること大のごとく、微を見ること著のごとくなったならば、来って我に告げるがよいと。

14 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:16:49 ID:HpyHOxvI0.net

 それ以來今迄にどんな所行をし續けて來たか、それは到底語るに忍びない。

ただ、一日の中に必ず數時間は、人間の心が還つて來る。さういふ時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雜な思考にも堪へ得るし、經書の章句をも誦ずることも出來る。

その人間の心で、虎としての己の殘虐な行のあとを見、己の運命をふりかへる時が、最も情なく、恐しく、憤ろしい。

しかし、その、人間にかへる數時間も、日を經るに從つて次第に短くなつて行く。今迄は、どうして虎などになつたかと怪しんでゐたのに、此の間ひよいと氣が付いて見たら、己れはどうして以前、人間だつたのかと考へてゐた。之は恐しいことだ。

16 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:17:17 ID:HpyHOxvI0.net

今少し經てば、己れの中の人間の心は、獸としての習慣の中にすつかり埋れて消えて了ふだらう。恰度、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋沒するやうに。

さうすれば、しまひに己れは自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂ひ廻り、今日の樣に途で君と出會つても故人と認めることなく、君を裂き喰うて何の悔も感じないだらう。

一體、獸でも人間でも、もとは何か他のものだつたんだらう。初めはそれを憶えてゐたが、次第に忘れて了ひ、初めから今の形のものだつたと思ひ込んでゐるのではないか? 

32 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:25:19 ID:HpyHOxvI0.net

 言終つて、叢中から慟哭の聲が聞えた。袁傪も亦涙を泛べ、欣んで李徴の意に副ひ度い旨を答へた。李徴の聲は併し忽ち又先刻の自嘲的な調子に戻つて、言つた。

 本當は、先づ、この事の方を先にお願ひすべきだつたのだ、己れが人間だつたなら。飢ゑ凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を氣にかけてゐる樣な男だから、こんな獸に身を墮すのだ。

 さうして、附加へて言ふことに、袁傪が嶺南からの歸途には決して此の途を通らないで欲しい、其の時には自分が醉つてゐて故人を認めずに襲ひかかるかも知れないから。

又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上つたら、此方を振りかへつて見て貰ひ度い。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇らうとしてではない。我が醜惡な姿を示して、以て、再び此處を過ぎて自分に會はうとの氣持を君に起させない爲であると。

13 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:16:44 ID:5wJt+dnA0.net

またお前か

18 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:18:18 ID:HpyHOxvI0.net

 袁傪はじめ一行は、息をのんで、叢中の聲の語る不思議に聞入つてゐた。聲は續けて言ふ。

 他でもない。自分は元來詩人として名を成す積りでゐた。しかも、業未だ成らざるに、この運命に立至つた。曾て作る所の詩數百篇、固より、まだ世に行はれてをらぬ。遺稿の所在も最早判らなくなつてゐよう。

所で、その中、今も尚記誦せるものが數十ある。之を我が爲に傳録して戴き度いのだ。何も、之に仍つて一人前の詩人面をしたいのではない。

作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂はせて迄自分が生涯それに執著した所のものを、一部なりとも後代に傳へないでは、死んでも死に切れないのだ。

49 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:37:52 ID:HpyHOxvI0.net

ある日ふと気が付くと、窓の虱が馬のような大きさに見えていた。

占めたと、紀昌は膝を打ち、表へ出る。彼は我が目を疑った。人は高塔であった。馬は山であった。豚は丘のごとく、鷄は城楼と見える。

雀躍[じゃくやく]して家にとって返した紀昌は、再び窓際の虱に立向い、燕角の弧[ゆみ]に朔蓬の簳[やがら]をつがえてこれを射れば、矢は見事に虱の心の臓を貫いて、しかも虱を繋いだ毛さえ断[き]れぬ。

3 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:11:09 ID:HpyHOxvI0.net

 隴西の李徴は博學才穎[えい]、天寶の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃む所頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかつた。

いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に歸臥し、人と交を絶つて、ひたすら詩作に耽つた。下吏となつて長く膝を俗惡な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺さうとしたのである。

しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。李徴は漸く焦躁に驅られて來た。この頃から其の容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに烱々として、曾て進士に登第した頃の豐頬の美少年の俤は、何處に求めやうもない。

41 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:31:29 ID:HpyHOxvI0.net

 趙の邯鄲[かんたん]の都に住む紀昌[きしょう]という男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。

己の師と頼むべき人物を物色するに、当今弓矢をとっては、名手・飛衛[ひえい]に及ぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人だそうである。紀昌は遥々飛衛をたずねてその門に入った。

46 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:34:25 ID:0p9XGVin0.net

謎定期

17 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:17:45 ID:HpyHOxvI0.net

いや、そんな事はどうでもいい。己れの中の人間の心がすつかり消えて了へば、恐らく、その方が、己れはしあはせになれるだらう。だのに、己れの中の人間は、その事を、此の上なく恐しく感じてゐるのだ。

ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思つてゐるだらう! 己れが人間だつた記憶のなくなることを。

この氣持は誰にも分らない。誰にも分らない。己れと同じ身の上に成つた者でなければ。所で、さうだ。己れがすつかり人間でなくなつて了ふ前に、一つ頼んで置き度いことがある。

54 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:42:47 ID:HpyHOxvI0.net

 もはや師から学び取るべき何ものも無くなった紀昌は、ある日、ふと良からぬ考えを起した。

 彼がその時独りつくづくと考えるには、今や弓をもって己に敵すべき者は、師の飛衛をおいて外に無い。天下第一の名人となるためには、どうあっても飛衛を除かねばならぬと。

秘かにその機会を窺っている中に、一日たまたま郊野において、向うからただ一人歩み来る飛衛に出遇った。

とっさに意を決した紀昌が矢を取って狙いをつければ、その気配を察して飛衛もまた弓を執って相応ずる。二人互いに射れば、矢はその度に中道にして相当り、共に地に墜ちた。地に落ちた矢が軽塵をも揚げなかったのは、両人の技がいずれも神[しん]に入っていたからであろう。

20 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:19:02 ID:HpyHOxvI0.net

 舊詩を吐き終つた李徴の聲は、突然調子を變へ、自らを嘲るが如くに言つた。

 羞しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己れは、己れの詩集が長安風流人士の机の上に置かれてゐる樣を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たはつて見る夢にだよ。嗤つて呉れ。詩人に成りそこなつて虎になつた哀れな男を。

(袁傪は昔の青年李徴の自嘲癖を思出しながら、哀しく聞いてゐた。)

48 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:36:49 ID:HpyHOxvI0.net

虱を吊るした窓の外の風物は、次第に移り変る。

煕々[きき]として照っていた春の陽はいつか烈しい夏の光に変り、澄んだ秋空を高く雁が渡って行ったかと思うと、はや、寒々とした灰色の空から霙[みぞれ]が落ちかかる。

紀昌は根気よく、毛髪の先にぶら下った有吻類・催痒性の小節足動物を見続けた。その虱も何十匹となく取換えられて行く中[うち]に、早くも三年の月日が流れた。

56 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:44:06 ID:HpyHOxvI0.net

さて、飛衛の矢が尽きた時、紀昌の方はなお一矢を余していた。得たりと勢込んで紀昌がその矢を放てば、飛衛はとっさに、傍なる野茨の枝を折り取り、その棘の先端をもってハッシと鏃を叩き落した。

ついに非望の遂げられないことを悟った紀昌の心に、成功したならば決して生じなかったに違いない道義的慚愧の念が、この時忽焉[こつえん]として湧起った。

飛衛の方では、また、危機を脱し得た安堵と己が伎倆についての満足とが、敵に対する憎しみをすっかり忘れさせた。二人は互いに駈寄ると、野原の真中に相抱いて、しばし美しい師弟愛の涙にかきくれた。

22 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:19:48 ID:HpyHOxvI0.net

 時に、殘月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に曉の近きを告げてゐた。人々は最早、事の奇異を忘れ、肅然として、この詩人の薄倖を嘆じた。李徴の聲は再び續ける。

 何故こんな運命になつたか判らぬと、先刻は言つたが、しかし、考へやうに依れば、思ひ當ることが全然ないでもない。

人間であつた時、己れは努めて人との交を避けた。人々は己れを倨傲だ、尊大だといつた。實は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかつた。

勿論、曾ての郷黨の秀才だつた自分に、自尊心が無かつたとは云はない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいふべきものであつた。

12 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:16:10.57 ID:HpyHOxvI0.net

少し明るくなつてから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となつてゐた。

自分は初め眼を信じなかつた。次に、之は夢に違ひないと考へた。
夢の中で、之は夢だぞと知つてゐるやうな夢を、自分はそれ迄に見たことがあつたから。どうしても夢でないと悟らねばならなかつた時、自分は茫然とした。さうして、懼れた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。

しかし、何故こんな事になつたのだらう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取つて、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。

自分は直ぐに死を想うた。しかし、其の時、眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。

再び自分の中の人間が目を覺ました時、自分の口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばつてゐた。之が虎としての最初の經驗であつた。

55 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:43:08 ID:jhh6ZunS0.net

本棚からとったが文が美しすぎる
今はだれもこんなん読まないだろう

39 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:30:24 ID:HpyHOxvI0.net

>>8の
>叢の中から人間の聲で「あぶない所だつた」と繰返し呟くのが聞えた。其の聲に袁傪は聞き憶えがあつた。驚懼の中にも、彼は咄嗟に思ひあたつて、叫んだ。「其の聲は、我が友、李徴子ではないか?」

>叢の中からは、暫く返辭が無かつた。しのび泣きかと思はれる微かな聲が時々洩れるばかりである。ややあつて、低い聲が答へた。「如何にも自分は隴西の李徴である」と。

この瞬間の李徴がどれだけ嬉しかったかとか思うとすこなんやただの感想やけど

43 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:33:04 ID:HpyHOxvI0.net

彼はようやく機の下から匍出す。もはや、鋭利な錐[きり]の先をもって瞼を突かれても、まばたきをせぬまでになっていた。

不意に火の粉が目に飛入ろうとも、目の前に突然灰神楽が立とうとも、彼は決して目をパチつかせない。彼の瞼はもはやそれを閉じるべき筋肉の使用法を忘れ果て、夜、熟睡している時でも、紀昌の目はカッと大きく見開かれたままである。

ついに、彼の目の睫毛と睫毛との間に小さな一匹の蜘蛛が巣をかけるに及んで、彼はようやく自信を得て、師の飛衛にこれを告げた。

10 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:14:36 ID:HpyHOxvI0.net

 後で考へれば不思議だつたが、其の時、袁傪は、この超自然の怪異を、實に素直に受容れて、少しも怪まうとしなかつた。彼は部下に命じて行列の進行を停め、自分は叢の傍に立つて、見えざる聲と對談した。

都の噂、舊友の消息、袁傪が現在の地位、それに對する李徴の祝辭。青年時代に親しかつた者同志の、あの隔てのない語調で、それ等が語られた後、袁傪は、李徴がどうして今の身となるに至つたかを訊ねた。草中の聲は次のやうに語つた。

15 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:17:15 ID:f1B0pMNE0.net

お久しぶり

11 :風吹けば名無し:2020/01/15(水) 05:15:04 ID:HpyHOxvI0.net

 今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊つた夜のこと、一睡してから、ふと眼を覺ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでゐる。聲に應じて外へ出て見ると、聲は闇の中から頻りに自分を招く。

覺えず、自分は聲を追うて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、何時しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫んで走つてゐた。何か身體中に力が充ち滿ちたやうな感じで、輕々と岩石を跳び越えて行つた。

氣が付くと、手先や肱のあたりに毛を生じてゐるらしい。