夜明け前に山月記を読み返す🌔🏔🐅

1 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:04:06.45 ID:Gpntx6PG0.net
🐯・・・

48 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:27:34.87 ID:Gpntx6PG0.net

 病が次第に篤くなり、焦眉の問題として眞劍後嗣のことを考へねばならなくつた時、叔孫豹は矢張仲壬を呼ばうと思つた。豎牛にそれを命じる。

命を受けて出ては行つたが、勿論斉にゐる仲壬に使を出しはしない。早速仲壬の許へ使を遣はしたが、非道なる父の所へは二度と戻らぬといふ返辭だつたと復命する。

此の頃になつて漸く叔孫も、此の近臣に対する疑ひが湧いて来た。汝の言葉は眞實か? と屹として聞き返したのは其の爲である。

どうして私が僞[いつわり]など申しませう、と答える豎牛の唇の端が、其の時嘲るやうに歪んだのを病人は見た。

46 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:25:19 ID:Gpntx6PG0.net

 孟丙の弟仲壬は昭公の近侍某と親しくしてゐたが、一日友を公宮の中に訪ねた時、偶々公の目に留まつた。二言三言、その下問に答へてゐる中に、氣に入られたと見え、歸りには親しく玉環を賜はつた。

大人しい青年で、親にも告げずに身に佩びては惡からうと、豎牛を通じて病父に其の名譽の事情を告げ玉環を見せようとした。牛は玉環を受取つて内に入つたが、叔孫には示さない。仲壬が來たといふことさへ話さぬ。

再び外に出て來て言つた。父上には大變御喜びで直ぐにも身に着ける樣にとのことでした、と。仲壬はそこで始めてそれを身に佩びた。

38 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:21:28.43 ID:Gpntx6PG0.net

 或朝、一人の女が雉を手土產に訪ねて来た。始め叔孫の方ではすつかり見忘れてゐたが、話して行く中に直ぐ判つた。十数年前斉へ逃れる道すがら庚宗の地で契つた女である。

獨りかと尋ねると、伜[せがれ]を連れて来てゐるといふ。しかも、あの時の叔孫の子だといふのだ。

兎に角、前に連れて来させると、叔孫はアッと声に出した。色のい・眼の凹んだ・傴僂なのだ。夢の中で己を助けたい牛男にそつくりである。思はず口の中で「牛!」と言つて了つた。

すると其のい少年が驚いた顔をして返辭をする。叔孫は一層驚いて、少年の名を問へば、「牛と申します」と答えた。

 母子共に卽刻引取られ、少年は豎[じゆ](小姓)の一人に加へられた。それ故、長じて後も此の牛に似た男は豎牛と呼ばれるのである。

容貌に似合はず小才の利く男で、頗る役には立つが、何時も陰鬱な顔をして少年仲間の戯れにも加はらぬ。主人以外の者には笑顔一つ見せない。叔孫にはひどく可愛がられ、長じては叔孫家の家政一切の切廻しをするやうになつた。

27 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:15:12 ID:Gpntx6PG0.net

 一行が丘の上についた時、彼等は、言はれた通りに振返つて、先程の林間の草地を眺めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失つた月を仰いで、二聲三聲咆哮したかと思ふと、又、元の叢に躍り入つて、再び其の姿を見なかつた。

36 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:19:46 ID:Gpntx6PG0.net

 或夜、夢を見た。

四邊[あたり]の空氣が重苦しく立罩め不吉な豫感が靜かな部屋の中を領してゐる。突然、音も無く室の天井が下降し始める。極めて徐々に、しかし極めて確實に、それは少しづつ降りて來る。一刻毎に部屋の空氣が濃く淀み、呼吸が困難になつてくる。

逃げようともがくのだが、身體は寢床の上に仰向いた儘どうしても動けない。見える筈はないのに、天井の上を眞?な天が盤石の重さで押しつけてゐるのが、はつきり判る。

愈々天井が近づき、堪へ難い重みが胸を圧した時、ふと横を見ると、一人の男が立つてゐる。

恐ろしく色の?い傴瘻[せむし]で、眼が深く凹み、獣の樣に突出た口をしてゐる。全体が、真黒な牛に良く似た感じである。

牛[ぎう]!余[われ]を助けよ、と思はず救を求めると、其の?い男が手を差伸べて、上からのし掛かる無限の重みを支へて呉れる。それからもう一方の手で胸の上を輕く撫でて呉れると、急に今迄の壓迫感が失つて了つた。ああ、良かつた、と思はず口に出した時、目が醒めた。

33 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:17:23 ID:Gpntx6PG0.net

>>30
寝た後やぞ

11 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:07:42.55 ID:Gpntx6PG0.net

 今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊つた夜のこと、一睡してから、ふと眼を覺ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでゐる。聲に應じて外へ出て見ると、聲は闇の中から頻りに自分を招く。

覺えず、自分は聲を追うて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、何時しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫んで走つてゐた。何か身體中に力が充ち滿ちたやうな感じで、輕々と岩石を跳び越えて行つた。

氣が付くと、手先や肱のあたりに毛を生じてゐるらしい。

少し明るくなつてから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となつてゐた。

18 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:11:48 ID:Gpntx6PG0.net

さうだ。お笑ひ草ついでに、今の懷を即席の詩に述べて見ようか。この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きてゐるしるしに。

 袁傪は又下吏に命じて之を書きとらせた。その詩に言ふ。

偶因狂疾成殊類  災患相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵  當時聲跡共相高
我爲異物蓬茅下  君已乘軺氣勢豪
此夕溪山對明月  不成長嘯但成嘷

28 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:15:25 ID:Gpntx6PG0.net

(昭和17年2月發表)

7 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:06:26 ID:Gpntx6PG0.net

果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。虎は、あはや袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隱れた。

叢の中から人間の聲で「あぶない所だつた」と繰返し呟くのが聞えた。其の聲に袁傪は聞き憶えがあつた。驚懼の中にも、彼は咄嗟に思ひあたつて、叫んだ。「其の聲は、我が友、李徴子ではないか?」

袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かつた李徴にとつては、最も親しい友であつた。温和な袁傪の性格が、峻峭な李徴の性情と衝突しなかつたためであらう。

 叢の中からは、暫く返辭が無かつた。しのび泣きかと思はれる微かな聲が時々洩れるばかりである。ややあつて、低い聲が答へた。「如何にも自分は隴西の李徴である」と。

34 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:18:00.66 ID:Gpntx6PG0.net

牛人 中島敦

6 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:06:03.67 ID:Gpntx6PG0.net

 翌年、監察御史、陳郡の袁傪といふ者、勅命を奉じて嶺南に使し、途に商於の地に宿つた。
次の朝未だ暗い中に出發しようとした所、驛吏が言ふことに、これから先の道に人喰虎が出る故、旅人は白晝でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでせうと。

袁傪は、しかし、供廻りの多勢なのを恃み、驛吏の言葉を斥けて、出發した。殘月の光をたよりに林中の草地を通つて行つた時、

2 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:04:12.39 ID:Gpntx6PG0.net

山月記 中島敦

8 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:06:53.03 ID:Gpntx6PG0.net

 袁傪は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懷かしげに久濶を叙した。そして、何故叢から出て來ないのかと問うた。

李徴の聲が答へて言ふ。自分は今や異類の身となつてゐる。どうして、おめゝゝと故人の前にあさましい姿をさらせようか。且つ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭の情を起させるに決つてゐるからだ。

しかし、今、圖らずも故人に遇ふことを得て、愧赧の念をも忘れる程に懷かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜惡な今の外形を厭はず、曾て君の友李徴であつた此の自分と話を交して呉れないだらうか。

 後で考へれば不思議だつたが、其の時、袁傪は、この超自然の怪異を、實に素直に受容れて、少しも怪まうとしなかつた。彼は部下に命じて行列の進行を停め、自分は叢の傍に立つて、見えざる聲と對談した。

15 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:09:52 ID:Gpntx6PG0.net

今少し經てば、己れの中の人間の心は、獸としての習慣の中にすつかり埋れて消えて了ふだらう。恰度、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋沒するやうに。
さうすれば、しまひに己れは自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂ひ廻り、今日の樣に途で君と出會つても故人と認めることなく、君を裂き喰うて何の悔も感じないだらう。
一體、獸でも人間でも、もとは何か他のものだつたんだらう。初めはそれを憶えてゐたが、次第に忘れて了ひ、初めから今の形のものだつたと思ひ込んでゐるのではないか? いや、そんな事はどうでもいい。

己れの中の人間の心がすつかり消えて了へば、恐らく、その方が、己れはしあはせになれるだらう。だのに、己れの中の人間は、その事を、此の上なく恐しく感じてゐるのだ。
ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思つてゐるだらう! 己れが人間だつた記憶のなくなることを。

この氣持は誰にも分らない。誰にも分らない。己れと同じ身の上に成つた者でなければ。所で、さうだ。己れがすつかり人間でなくなつて了ふ前に、一つ頼んで置き度いことがある。

42 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:23:44 ID:Gpntx6PG0.net

 叔孫が寢付く以前に、長子の孟丙の為に鐘を鑄させることに決め、其の時に言つた。お前はまだ此の國の諸大夫と近附になつてゐないから、此の鐘が出来上つたら、其の祝を兼ねて諸大夫と饗應するが宜しからうと。明らかに孟丙を相續者と決めての話である。

叔孫が病に臥してから、漸く鐘が出來上つた。孟丙は、かねて話のあつた宴會の日取の都合を父に聞かうとして、豎牛に其の旨を通じて貰つた。特別の事情が無い限り、豎牛の外は誰一人病室に出入出来なかつたのである。

豎牛は孟丙の?を受けて病室に入つたが、叔孫には何事も取次がない。直ぐ外へ出て孟丙に向ひ、主君の言葉として出鱈目な日にちを指定する。指定された日に孟丙は賓客を招き盛んに饗應して、其の座で始めて新しい鐘を打つた。

51 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:30:54 ID:Gpntx6PG0.net

 偶々此の家の宰たる杜洩[とせつ]が見舞に来た。病人は杜洩に向つて豎牛の仕打を訴へるが、日頃の信任を承知してゐる杜洩は冗談と考へててんで取合はない。叔孫が尙も餘り眞劍に訴へると、今度は病熱のため心?が錯亂したのではないかと、いぶかる風である。

豎牛も亦横から杜洩に目配して、頭の惑亂した病者にはつくづく困り果てたといふ表情を見せる。

しまひに、病人はいら立つて淚を流しながら、痩せ衰へた手で傍の劍を指し、杜洩に「之であの男を殺せ。殺せ、早く!」と叫ぶ。どうしても自分が狂者としてしか扱はれないことを知ると、叔孫は衰へ切つた身體を顫はせて號泣する。

杜洩は牛と目を見合せ、眉をしかめながら、そつと室を出る。客が去つてから始めて、牛男の顔に會體の知れぬ笑が微かに浮かぶ。

17 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:11:33.40 ID:Gpntx6PG0.net

 袁傪は部下に命じ、筆を執つて叢中の聲に隨つて書きとらせた。李徴の聲は叢の中から朗々と響いた。長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一讀して作者の才の非凡を思はせるものばかりである。

しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次の樣に感じてゐた。成程、作者の素質が第一流に屬するものであることは疑ひない。しかし、この儘では、第一流の作品となるのには、何處か(非常に微妙な點に於て)缺ける所があるのではないか、と。

 舊詩を吐き終つた李徴の聲は、突然調子を變へ、自らを嘲るが如くに言つた。

 羞しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己れは、己れの詩集が長安風流人士の机の上に置かれてゐる樣を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たはつて見る夢にだよ。嗤つて呉れ。詩人に成りそこなつて虎になつた哀れな男を。

(袁傪は昔の青年李徴の自嘲癖を思出しながら、哀しく聞いてゐた。)

14 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:08:54 ID:Gpntx6PG0.net

 それ以來今迄にどんな所行をし續けて來たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず數時間は、人間の心が還つて來る。さういふ時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雜な思考にも堪へ得るし、經書の章句をも誦ずることも出來る。
その人間の心で、虎としての己の殘虐な行のあとを見、己の運命をふりかへる時が、最も情なく、恐しく、憤ろしい。

しかし、その、人間にかへる數時間も、日を經るに從つて次第に短くなつて行く。今迄は、どうして虎などになつたかと怪しんでゐたのに、此の間ひよいと氣が付いて見たら、己れはどうして以前、人間だつたのかと考へてゐた。之は恐しいことだ。

47 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:26:05.53 ID:Gpntx6PG0.net

數日後、豎牛が叔孫に勧める。既に孟丙が亡い以上、仲壬を後嗣に立てることは決つてゐる故、今から主君昭公に御目通りさせては如何。叔孫がいふ。いや、まだそれと決めた譯ではないから、今からそんな必要はない。

しかし、と牛が言葉を返す。父上の思召はどうあらうと、息子の方では勝手にさう決め込んで、最早直接君公に御目通りしてゐますよ。そんな莫迦な事がある筈は無いという叔孫に、それでも近頃仲壬が君公から拜領したといふ玉環を佩びてゐることは確かです、と牛が請け合ふ。

早速仲壬が呼ばれる。果たして玉環を佩びてゐる。公からの戴きものだと云ふ。父は利かぬ身体を床の上に起して怒つた。息子の辯解は何一つ聞かれず、直ぐにその場を退いて謹愼せよといふ。

 其の夜、仲壬はひそかに斉へ奔つた。

19 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:12:17.54 ID:Gpntx6PG0.net

 時に、殘月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に曉の近きを告げてゐた。人々は最早、事の奇異を忘れ、肅然として、この詩人の薄倖を嘆じた。李徴の聲は再び續ける。

 何故こんな運命になつたか判らぬと、先刻は言つたが、しかし、考へやうに依れば、思ひ當ることが全然ないでもない。

人間であつた時、己れは努めて人との交を避けた。人々は己れを倨傲だ、尊大だといつた。實は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかつた。
勿論、曾ての郷黨の秀才だつた自分に、自尊心が無かつたとは云はない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいふべきものであつた。

39 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:21:54 ID:Gpntx6PG0.net

 眼の凹んだ・口の突出た・?い顔は、極く偶に笑ふとひどく滑稽な愛嬌に富んだものに見える。この剽輕[へうきん]な顔付の男に惡企なぞ出來さうもないといふ印象を與へる。目上の者に見せるのは此の顔だ。

佛頂面をして考へ込む時の顔は、一寸人間離れのした怪奇な残忍さを呈する。儕輩の誰彼が恐れるのは此の顔だ。意識しないでも自然に此の二つの顔の使ひ分けが出來るらしい。

3 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:04:45.70 ID:Gpntx6PG0.net

 隴西の李徴は博學才穎、天寶の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃む所頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかつた。
いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に歸臥し、人と交を絶つて、ひたすら詩作に耽つた。下吏となつて長く膝を俗惡な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺さうとしたのである。

しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。李徴は漸く焦躁に驅られて來た。この頃から其の容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに烱々として、曾て進士に登第した頃の豐頬の美少年の俤は、何處に求めやうもない。

20 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:12:44 ID:Gpntx6PG0.net

己れは詩によつて名を成さうと思ひながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交つて切磋琢磨に努めたりすることをしなかつた。かといつて、又、己れは俗物の間に伍することも潔しとしなかつた。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所爲である。

己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨かうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出來なかつた。己れは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによつて益々己の内なる臆病な自尊心を飼ひふとらせる結果になつた。

人間は誰でも猛獸使であり、その猛獸に當るのが、各人の性情だといふ。己れの場合、この尊大な羞恥心が猛獸だつた。虎だつたのだ。之が己を損ひ、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形を斯くの如く、内心にふさはしいものに變へて了つたのだ。

5 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:05:25.78 ID:Gpntx6PG0.net

一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿つた時、遂に發狂した。

或夜半、急に顏色を變へて寢床から起上ると、何か譯の分らぬことを叫びつつ其の儘下にとび下りて、闇の中へ駈出した。彼は二度と戻つて來なかつた。附近の山野を搜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなつたかを知る者は、誰もなかつた。

40 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:22:26.40 ID:Gpntx6PG0.net

 叔孫豹の信任は無限であつたが、後嗣[あとつぎ]に直さうとは思つてゐない。秘書乃至執事としては無類と考へてゐるが、魯の名家の當主とは、其の人品からしても一寸考へにくいのである。

豎も勿論それは心得てゐる。叔孫の息子達、殊に齊から迎へられた孟丙・仲壬の二人に向つては、常に慇懃を極めた態度をとつてゐる。

彼等の方では、幾分の不氣味さと多分の輕蔑とを此の男に感じてゐるだけだ。父の寵の厚いのに大して嫉妬を覺えないのは、人柄の相違といふものに自信をもつてゐるからであらう。

13 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:08:51 ID:SIc7EDcF0.net

なんJ国語部

50 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:29:23.34 ID:Gpntx6PG0.net

 次の日から殘酷な所作が始まる。病人が人に接するのを嫌ふからとて、食事は膳部の者が次室迄運んで置き、それを豎牛が病者の枕頭へ持つて来るのが慣はしであつたのを、今や此の侍者が病人に食を進めなくなつたのである。

差出される食事は悉く自分が喰つて了ひ、からだけを又出して置く。膳部の者は叔孫が喰べたことと思つてゐる。病人が餓を訴へても、牛男は黙つて冷笑するばかり。返辭さへ最早しなくなつた。誰に助を求めようにも、叔孫には絶えて手段が無いのである。

29 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:15:42 ID:Gpntx6PG0.net

>>13
いうほど国語か?

22 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:13:42 ID:Gpntx6PG0.net

己れには最早人間としての生活は出來ない。たとへ、今、己れが頭の中で、どんな優れた詩を作つたにした所で、どういふ手段で發表できよう。

まして、己れの頭は日毎に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己れの空費された過去は? 己れは堪らなくなる。

さういふ時、己れは、向うの山の頂の巖に上り、空谷に向つて吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴へたいのだ。己れは昨夕も、彼處で月に向つて咆えた。誰かに此の苦しみが分つて貰へないかと。

しかし、獸どもは己れの聲を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂つて、哮つてゐるとしか考へない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己れの氣持を分つて呉れる者はない。
恰度、人間だつた頃、己れの傷つき易い内心を誰も理解して呉れなかつたやうに。己れの毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。

45 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:24:53 ID:ou7VFZo4a.net

🐯

23 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:14:07.20 ID:Gpntx6PG0.net

 漸く四邊の暗さが薄らいで來た。木の間を傳つて、何處からか、曉角が哀しげに響き始めた。

 最早、別れを告げねばならぬ。醉はねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の聲が言つた。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。

彼等は未だ虢略にゐる。固より、己れの運命に就いては知る筈がない。君が南から歸つたら、己れは既に死んだと彼等に告げて貰へないだらうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。
厚かましいお願だが、彼等の孤弱を憐れんで、今後とも道塗に飢凍することのないやうにはからつて戴けるならば、自分にとつて、恩倖、之に過ぎたるは莫い。

30 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:16:48 ID:qiGaRJaN0.net

こいついっつも寝る前に山月記読んでるな

25 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:15:02.01 ID:Gpntx6PG0.net

 袁傪は叢に向つて、懇ろに別れの言葉を述べ、馬に上つた。叢の中からは、又、堪へ得ざるが如き悲泣の聲が洩れた。袁傪も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出發した。

31 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:16:48 ID:lY9vZ2oN0.net

漢文の素養あり

44 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:24:44.58 ID:Gpntx6PG0.net

 宴が終り、若い叔孫家の後嗣は快く諸賓客を送りだしたが、翌朝は既に屍体となつて家の裏藪に棄てられてゐた。

37 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:20:10.31 ID:Gpntx6PG0.net

 翌朝、從者下僕等を集めて一々撿べて見たが、夢の中の牛男に似た者は誰もゐない。其の後も齊の都に出入りする人々に就いて、それとなく氣を付けて見るが、それらしい人相の男には絶えて出會はない。

 數年後、再び故國に政變が起り、叔孫豹は家族を斉に残して急遽歸國した。後、大夫として魯の朝に立つに及んで、始めて妻子を呼ばうとしたが、妻は旣に齊の大夫某と通じてゐて、一向夫の許に来ようとはしない。
結局、二子孟丙・仲壬[まうへい・ちゆうじん]だけが父の所へ来た。

4 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:05:11.72 ID:Gpntx6PG0.net

數年の後、貧窮に堪へず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになつた。

一方、之は、己の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遙か高位に進み、彼が昔、鈍物として齒牙にもかけなかつた其の連中の下命を拜さねばならぬことが、往年の儁才李徴の自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。

彼は怏々として樂しまず、狂悖の性は愈々抑へ難くなつた。

12 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:08:16.61 ID:Gpntx6PG0.net

自分は初め眼を信じなかつた。次に、之は夢に違ひないと考へた。夢の中で、之は夢だぞと知つてゐるやうな夢を、自分はそれ迄に見たことがあつたから。
どうしても夢でないと悟らねばならなかつた時、自分は茫然とした。さうして、懼れた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。

しかし、何故こんな事になつたのだらう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取つて、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。

自分は直ぐに死を想うた。しかし、其の時、眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。

再び自分の中の人間が目を覺ました時、自分の口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばつてゐた。之が虎としての最初の經驗であつた。

24 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:14:47.88 ID:Gpntx6PG0.net

 言終つて、叢中から慟哭の聲が聞えた。袁傪も亦涙を泛べ、欣んで李徴の意に副ひ度い旨を答へた。李徴の聲は併し忽ち又先刻の自嘲的な調子に戻つて、言つた。

 本當は、先づ、この事の方を先にお願ひすべきだつたのだ、己れが人間だつたなら。飢ゑ凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を氣にかけてゐる樣な男だから、こんな獸に身を墮すのだ。

 さうして、附加へて言ふことに、袁傪が嶺南からの歸途には決して此の途を通らないで欲しい、其の時には自分が醉つてゐて故人を認めずに襲ひかかるかも知れないから。

又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上つたら、此方を振りかへつて見て貰ひ度い。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇らうとしてではない。我が醜惡な姿を示して、以て、再び此處を過ぎて自分に會はうとの氣持を君に起させない爲であると。

16 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:10:57.08 ID:Gpntx6PG0.net

 袁傪はじめ一行は、息をのんで、叢中の聲の語る不思議に聞入つてゐた。聲は續けて言ふ。

 他でもない。自分は元來詩人として名を成す積りでゐた。しかも、業未だ成らざるに、この運命に立至つた。曾て作る所の詩數百篇、固より、まだ世に行はれてをらぬ。遺稿の所在も最早判らなくなつてゐよう。

所で、その中、今も尚記誦せるものが數十ある。之を我が爲に傳録して戴き度いのだ。

何も、之に仍つて一人前の詩人面をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂はせて迄自分が生涯それに執著した所のものを、一部なりとも後代に傳へないでは、死んでも死に切れないのだ。

41 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:22:55.17 ID:Gpntx6PG0.net

 魯の襄公[じようこう]が死んで若い昭公の代となる頃から、叔孫の健康が衰へ始めた。丘蕕[きういう]といふ所へ狩りに行つた歸りに惡寒を覚えて寢付いてからは、漸く足腰が立たなくなつて來る。

病中の身の廻りの世話から、病床より命令の傳達に至る迄、一切は豎牛に任せられることになつた。豎牛の孟丙等に對する態度は、しかし、愈々遜つてくる一方である。

49 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:27:55 ID:Gpntx6PG0.net

こんな事は此の男が邸に来てから全く始めてであつた。カッとして病人は起上らうとしたが、力が無い。直ぐ打倒れる。其の姿を、上から、?い牛の様な顔が、今度こそ明瞭な侮蔑を浮かべて、冷然と見下す。 儕輩や部下にしか見せなかつたあの殘忍な顔である。

家人や他の近臣を呼ばうにも、今迄の習慣で此の男の手を輕ないで誰一人呼べないことになつてゐる。其の夜病大夫は殺した孟丙のことを思つて口惜し泣きに泣いた。

26 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:15:11 ID:TjHSd8kO0.net

助かる

32 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:17:23 ID:ovK00sEId.net

サンガツ期

10 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:07:15.79 ID:1tWJrHROa.net

Jボーイズと読みたい名文学

52 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:31:08.04 ID:ya9m93xK0.net

朝のタイガーマスクスレ

35 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:18:28.50 ID:Gpntx6PG0.net

 魯の叔孫豹[しゆくそんへう]がまだ若かつた頃、亂を避けて一度齊に奔つたことがある。

途[みち]に魯の北境庚宗[かうそう]の地で一美婦を見た。俄かに懇ろとなり、一夜を共に過して、さて翌朝別れて齊に入つた。齊に落着き大夫國氏の娘を娶つて二児を擧げるに及んで、曾ての路傍一夜の契などはすつかり忘れ果てて了つた。

43 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:24:26.99 ID:Gpntx6PG0.net

病室で其の音を聞いた叔孫が怪しんで、あれは何だと聞く。孟丙の家で鐘の完成を祝ふ宴が催され多数の客が來てゐる旨を、豎牛が答へる。

俺の許も得ないで勝手に相續人面をするとは何事だ、と病人が顔色を變へる、それに、客の中には斉にいる孟丙殿の母上の關係の方々も遙々見えてゐる樣です、と豎牛が附加へる。

不義を働いた曾ての妻の話を持出すと何時も叔孫の機嫌が見るゝゝ悪くなることを、良く承知してゐるのだ。病人は怒つて立上らうとするが、豎牛に抱きとめられる。身體に障つてはいけないといふのである。

俺が此の病でてつきり死ぬものと決めて掛かつて、もう勝手な眞似を始めたのだなと齒咬みをしながら、叔孫は豎牛に命ずる。構はぬ。引捕へて牢に入れろ。抵抗するやうなら打殺しても宜い。

21 :風吹けば名無し:2019/12/10(火) 05:13:08 ID:Gpntx6PG0.net

今思へば、全く、己れは、己れの有つてゐた僅かばかりの才能を空費して了つた譯だ。
人生は何事をも爲さぬには餘りに長いが、何事かを爲すには餘りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事實は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭ふ怠惰とが己れの凡てだつたのだ。

己れよりも遙かに乏しい才能でありながら、それを專一に磨いたがために、堂々たる詩家となつた者が幾らでもゐるのだ。虎と成り果てた今、己れは漸くそれに氣が付いた。それを思ふと、己れは今も胸を灼かれるやうな悔を感じる。